西暦(昭和)月日 | プライベート | 事業 | 受賞 | |
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1928年(昭和3年)11月3日 | 大阪府豊能郡豊中町で生まれる | - | - | |
1933年(昭和8年) | 兵庫県川辺郡小浜村(後の宝塚市)へ引っ越す | - | - | |
1935年(昭和10年) | 池田師範付属小学校へ入学 | - | - | |
1941年(昭和16年) | 北野中学へ入学 | - | - | |
1945年(昭和20年) | 大阪大学医学専門部に入学 | - | - | |
1951年(昭和26年) | 大阪大学医学専門部卒業 | - | - | |
1952年(昭和27年) | 新宿区四谷に下宿 | - | - | |
1953年(昭和28年) | 椎名町のトキワ荘に移る | - | - | |
1954年(昭和29年) | 雑司ヶ谷の並木ハウスに移る | - | - | |
1957年(昭和32年) | 代々木初台に移る | - | - | |
1958年(昭和33年) | - | - | 「漫画生物学」「びいこちゃん」に対して第三回小学館漫画賞 油絵で出版美術家協会賞 |
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1959年(昭和34年) | 岡田悦子と結婚 | - | - | |
1960年(昭和35年) | 練馬区富士見台に家を新築 | - | - | |
1961年(昭和36年) | 奈良県立医大から医学博士号を授与 長男・真誕生 |
手塚治虫プロダクション動画部を設立 | - | |
1962年(昭和37年) | - | 虫プロダクションを設立 | ||
1963年(昭和38年) | - | - | 「ある街角の物語」で第17回芸術祭奨励賞 第13回ブルーリボン教育文化映画賞 毎日映画コンクール第1回大藤信朗賞 |
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1964年(昭和39年) | 長女・るみ子誕生 | - | 「鉄腕アトム」で第2回テレビ記者会賞特別賞受賞 | |
1965年(昭和40年) | - | 「鉄腕アトム」で厚生大臣から表彰 | ||
1966年(昭和41年) | - | 虫プロ商事発足,COM創刊 | 「ジャングル大帝」で第4回テレビ記者会賞特別賞 厚生大臣児童福祉文化賞 |
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1967年(昭和42年) | - | - | 「展覧会の絵」で第21回芸術祭奨励賞 第17回ブルーリボン教育文化映画賞 毎日映画コンクール第5回大藤信朗賞 第14回アジア映画祭動画部門賞 「劇場版ジャングル大帝」でベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞 「新ジャングル大帝 進め!レオ」で第6回日本テレフィルム技術賞 |
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1968年(昭和43年) | - | 手塚プロダクション設立 | - | |
1969年(昭和44年) | 次女・千以子誕生 | ファニー創刊 | - | |
1970年(昭和45年) | - | 虫プロ商事社長に就任 日本万国博フジパンロボット館でプロデュース |
「やさしいライオン」で毎日映画コンクール第8回大藤信朗賞 第12回児童福祉文化奨励賞 「火の鳥」で第1回講談社出版文化賞児童まんが部門 |
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1971年(昭和46年) | - | 虫プロダクション社長を退陣 てづかマガジンれお創刊 |
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1973年(昭和48年) | - | 虫プロダクション,虫プロ商事倒産 沖縄海洋博で政府館展示プロデューサー |
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1974年(昭和49年) | 杉並区下井草に移る | - | - | |
1975年(昭和50年) | - | - | 「ブラック・ジャック」で第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞 「ブッダ」「動物つれづれ草」で第21回文藝春秋漫画賞 |
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1976年(昭和51年) | - | 手塚プロダクションが高田馬場に移転 | - | |
1977年(昭和52年) | 急性肝炎で日本医科大学病院に入院 | - | 「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」で第1回講談社漫画賞 | |
1980年(昭和55年) | 東久留米に移る | - | 「火の鳥2772」でサンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞 第1回ラスベガス映画祭動画部門賞 |
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1981年(昭和56年) | - | 国際科学技術博覧会の基本構想委員会委員 | 「アニメージュ」主催の第3回アニメグランプリ特別賞 | |
1982年(昭和57年) | - | 国際科学技術博覧会のマスコットマーク審査員 | - | |
1983年(昭和58年) | 母・文子死去 | - | 第4回日本文化デザイン賞 | |
1984年(昭和59年) | 急性肝炎,胆石で半蔵門病院に入院 | - | 「ジャンピング」で第6回ザグレブ国際アニメーションフェスティバルグランプリ ユネスコ賞 「陽だまりの樹」で第29回小学館漫画賞(青年・一般向け部門) |
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1985年(昭和60年) | - | - | 東京都民栄誉賞 第1回東京国際映画祭テレ・ビナアニメフェスティバルで表彰 「手塚治虫漫画全集」で講談社漫画賞特別賞 「おんぼろフィルム」で第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ 第4回バルナ国際アニメーションフェスティバルカテゴリー部門最優秀賞 「ジャンピング」でバリャドリド国際アニメーションフェスティバル銀穂賞 |
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1986年(昭和61年) | 父・粲死去 | - | 「アドルフに告ぐ」で第10回講談社漫画賞(一般部門) | |
1987年(昭和62年) | - | 葵博岡崎'87総合プロデューサー | 「観たり撮ったり映したり」で第14回キネマ旬報愛読者賞 「ジャンピング/手塚治虫」で第2回映像ソフト大賞(通産大臣賞)ビデオ部門 |
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1988年(昭和63年) | 腹部の痛みで半蔵門病院に入院 | 埼玉県新座市に手塚プロのスタジオ完成 | 朝日賞 「森の伝説」で毎日映画コンクール25回大藤信朗賞 第8回ザグレブ国際アニメーションフェスティバルCIFEJ賞(青少年映画賞) フランス・ブール・アン・ブレス青少年のためのアニメーション映画祭青少年審査員短編部門賞 |