火の鳥「太陽編」における原稿改編考

序:
手塚先生が単行本として作品をまとめる際に雑誌連載時の原稿に手を加えるのは有名な話である。それはその時代その時代の世相にあわせて作品を組み立て直すからであり、生涯現役を通し、どんな若い才能にもジェラシーを感じ続けた先生としては当然のことだったのかもしれない。例えばこんな話がある。あるセリフ中で連載時「山口百恵」という名が書かれていた。この作品が単行本になったときそれは「松田聖子」と書き直されていた。さらに再版が続いたときいつのまにか「工藤静香」になっていたという。これがどの作品であったのかはわからないが、これくらいは当然あったであろうと思われる。しかし、この書き直し癖のために手塚研究をしている人は苦労をし、われわれファンはその作品収集に終わりがないのである…。
 さて、ではどの程度の書き直しがなされたのかを検証するにはどうすればよいのだろうか。これを例えば初期の名作「ジャングル大帝」でやろうとしたら大変な作業である。この作品は過去6回ほど単行本としてまとめられている。1989年以降のものは含めない、念のため。たぶん全く同じに刊行されたものはないと思われるので、これらをすべて検証しなければならない。
 趣味でやるのならやはり晩年の作品を選ぶのが賢明であろう。かといって大長編は禁物である。話の流れが変わっていた場合にそれこそ収拾がつかなくなる恐れがある。さらに途中で投げ出してしまうかもしれない。「陽だまりの樹」などは少々危険かもしれない。逆にあまりに短編だと面白くないし、セリフだけの書き換えだと張り合いがないかもしれない。今回は短くもなく、また長くもなく、そのうえ単行本化によって話が大幅に改編された「火の鳥 太陽編」について雑誌から単行本への流れを追ってみることにする。

 この作品は角川書店の「野生時代」という雑誌に1986年1月号から1988年2月号まで連載され、形ある作品として著された最後の火の鳥のエピソードである。単行本は上巻が1986年11月20日に発行され、下巻が1987年12月25日に発行されている。これだけなら問題がないのだが、実はこの下巻は2種類存在している。発行日を見てもわかるように連載が終わると同時に下巻は発売されており、手塚先生としては不本意なままの刊行であったのだろう。下巻は初版と再版以降では多数の書き直し箇所があるのである。筆者は当時中学生であり、書き直しがあるからといって高価な愛蔵本を2冊買い求めることはできなかった。最近講談社の全集からもこの「太陽編」が刊行されたので改めて購入した。基本的にはこれが再版以降のものと考えて差し支えないと思われる。そこで雑誌の切り抜き、角川からの単行本(上・下)初版、講談社全集の3種類によって本作品の書き換え部分を考察してみたいと思う。また以後講談社全集を再版以降という表記で統一させることにする。

1.総ページ数などの変化
 まず表を見て貰いたい。それぞれの総ページ数ならびに過去部分、未来部分、その他を示した。その他は過去から未来への切り替えページでありどちらとも決めかねた部分である。また、連載時の表紙は直接ストーリーに関係ある場合を除いてカウントしていない。



 連載時から単行本化にかけて約140ページがカットされている。過去部分は約8%が、また未来部分にいたっては約31.7%が削られていることになる。未来部分にはリプライズされた部分があったりするのだがこのことは後述する。
 過去と未来の比率を見ると単行本の方は過去が約10%増え、未来はその分が減っている。これはページ数の増減にほぼ比例している。また、単行本だけで見ると、初版から再版にかけては総ページで6ページ増えている。このうち過去が4ページ、未来が1ページ、その他が1ページである。つまり、過去部分は総ページの増減に関わらず常に増え続けたことがわかる。この太陽編の過去部分の中核になっている「壬申の乱」は角川の意向で取り上げられたとされており、それが単行本化に於いても注文があったのだろうか?。はたまた大作「ブッダ」で仏教の黎明時を描き抜いた先生がそれから2年の歳月を経て(ブッダの連載終了は'83.12)、その仏教の日本への伝来を描きたいという欲望があったのだろうか?。

2.エピソードの入れ替えなど
 図はそれぞれの版の話の流れをグラフにしたものである。その他部分は割愛してある。また、全体を100%として表示してあるため、ページ数の違いによる多少の誤差が生じていることを了承して貰いたい。連載時は過去と未来を行き来するストーリーであることをまず示すために未来部分が連載当初から頻繁に存在する。逆に単行本を見ると未来部分はまず付け足しのようにあり、だんだんページ数を増やし、上下巻にまたがり最大ページ数を示し、また収束していくというグラフ的にはグラデーションを描くようになっているのが興味深い。



全体的に過去部分と未来部分とは対照的である。未来部分は雑誌ではかなり早くストーリーが進み、既に13回の時に最終部分が描かれている。この部分は連載最終回時にリプライズされ再利用されている(会誌119号で大山氏はこれを「場面反復法」と名付けている)。このヨドミ(連載時はさおり)の再生部分をあらかじめ描いてしまったのはある意味で先生の勇み足だったかもしれない。この部分の続きは15回で描かれ、スグルとヨドミは火の鳥によって再び過去の記憶を呼び戻される。が、最終回で再び描かれたとき、二人は火の鳥の導きによって「ほんとに自由な世界」へ旅立つのである。後者で示したことが真であるならば火の鳥の示した壬申の乱の時代が自由な世界と言うことになり、大いなる矛盾となる。見方を変え、この矛盾を描くことが先生の目的であったならこの太陽編の示す深さはまた大きくなる。しかしながら単行本にした段階でこの場面反復を先生は放棄しているので、今現在では我々はこの矛盾を感じずに作品を楽しむことができる。
 過去部分は未来部分とは逆に時代背景がはっきりしている関係もあり、物語は素直に運ばれ、単行本化に際しても順番の入れ替え等はほとんどみられない。例外は第8回目に「intermission(休憩)」と題されて挿入された狗族と仏教の神との戦いのエピソードである。これは単行本化に際し、ルベツがハリマに話す部分に挿入されている。ちなみに連載時はこのボサットゥの四天王の塑像が戒壇院に陳列されているという解説が入っているが、単行本ではカットされている。「仏教徒にとって異教徒はまさしく邪悪な邪鬼だったのである」というセリフは少々過激かもしれない。

3.言葉遣いの変更部分
 いわゆるセリフの変更部分はここには書ききれないほどある。ちなみにそれぞれをすべて羅列していくと連載4回目までで、ワープロ原稿21枚分になった。ストーリーに関わる改編についてはこの後、4章で記すので、ここでは名称などをいくつか挙げて示したい。
 まず、「光」の中心の呼び方が連載時は「総本殿」であったのが単行本化に際し「総本山」に変更されている。本殿は神社で神霊を祭ってある中心となる神殿の意味であるが、本山は仏教で一宗・一派の寺院を支配するおおもとの寺の意である。過去の部分では仏教を悪として描いている。このことを未来部分でも強調するために単行本ではあえて名称を変更したのかもしれない。
 次におばばの呼び方である。ハリマはおばばのことを連載時は「仙女」と呼んでいるにも関わらず、単行本では「仙人」と呼んでいる。仙女とは呼んで字のごとく女の仙人のことである。この改編の理由は何であろうか。二人が初めて出てくる場面でおばばはハリマの精力について語っている。「わしが50年も若ければ…」と。書き換えをしたということはおばばはもう女ではない、ということを強調したのか?。
 スグルと恋に落ちる少女の名前が連載時はさおりであるのが、単行本ではヨドミとなっている。ほかの登場人物の名がスグルだの、イノリだのという中でさすがにさおりは変だったのだろう。
 このほか数えられないくらいの改編部分が存在する。それらの中には擬音の削除などほとんどどうでもいいもの(手塚先生ごめんなさい)から、ストーリーの伏線に大きくかかわり合うものまで様々である。もし、連載版と単行本版の両方を目にする機会があったらじっくりと観賞していただきたい。

4.ストーリーに関する改編部分について
 連載時は猿田の話では大友らの乗った探査船は火の鳥を捕獲したことになっている。しかしながらその後、第7回目で火の鳥とスグルとの会話の中では、火の鳥は探査船の中に入り、人間たち(大友ら)を説いて話したと語っている。これに反して単行本での猿田の話では火の鳥は自ら宇宙線の中に入ってきたとされている。このことから推測すると連載時の設定では大友らは火の鳥に会って話を聞いたにも関わらず、地球に帰ってからご神体を作って教団を設立している。対して単行本では大友らは火の鳥に会ってもいない。すべてが想像の産物となっている。また、この後ヨドミが再生する場面でも単行本では火の鳥は登場しない。つまり単行本を読む限りでは再版以降も含めて未来部分に火の鳥は登場していない。では大友はどのようにして火の鳥の存在を知ったのか。これは次に記す重大な改編部分とつながるのではないかと想像される。
 いよいよ本題というか、核心の部分である。このストーリーの改編が現在となっては大問題とも言えるのであるが、それはこれが「火の鳥」という大長編作品だけでなく、先生の代表作にも関わることとなっているためである。
 「鉄腕アトム」という作品がある。われわれファンからみてはともかく、世間的には先生の代表作とされている。このアトムを火の鳥の一エピソードにしようとしてた先生の構想も明らかにされている。その今は想像するしかない「火の鳥-アトム編」にこの太陽編は大きく関わるはずであった。連載時にはなんとお茶の水博士が登場している。彼は猿田の兄であり、彼ら兄弟は不仲であったという設定がある。
さらに大友らが火の鳥に出会った(とされている)のも連載時は2030年であるが、単行本に於いては1999年と訂正されている。アトムの誕生する年は一般的に2003年とされているが、先生はカラー版アトムの制作に於いてアトムの誕生を2030年としているのだ。つまりこの太陽編を連載している時点で先生はアトム編を念頭に置いていたことが想像される。それが単行本になると設定がすべて切り捨てられている。その理由はなにか?。角川の意向だろうか。それとも先生の意志であろうか。
時代的にも太陽編の次としてこの時点で「大地編」の構想があったとしたら、その次が「アトム編」であったであろうことは想像に難くない。あるいは先生はここでお茶の水博士を出演させることでせっかくの「太陽編」が「アトム編」の予告のように思われるのをいやがったのかもしれない。確かにあまりにもメジャーなお茶の水博士というキャラクターを出してしまってはこう考えても不思議はない。従って単行本ではこの場面は全面的にカットされ、結果的に未来部分での火の鳥の出演はなくなってしまった。しかし、時代的な設定から太陽編がアトム編と関わることは確かである。後に描かれたであろうアトム編で教団「光」の設立については明らかになったに違いない。猿田と大友は叔父-甥の関係であるから当然お茶の水博士とも同様の関係もしくは親子関係となる(ちなみに連載時の設定では大友はお茶の水博士の息子になっている)。呪われた猿田一族であるお茶の水博士は火の鳥と関わりを持つはずであり、大友が火の鳥をご神体とする教団を設立するまでの道程はこのあたりに答えがあると考えられる。また、アトム編でこの猿田とお茶の水博士の葛藤が描かれたに違いないのだ。今は想像するしかないが、これはこれで楽しいことでもある。

5.下巻の再版に向けての書き直し
 これもまた細かい部分が多く、ここにそれらを列挙するのは得策ではないと考えられる。いくつか相違部分を挙げると、再版以降では過去部分で人間の姿に戻った犬上が大海人皇子に会う場面があるが初版にはない、大友皇子の鎧が再版以降は色が薄くなっている、などがある。ストーリーに関わる部分での書き直しはほとんどみられない。その多くはセリフの変更、コマの入れ替えなどにとどまっている。下巻の発行が連載と同時進行であったため、先生としては納得いかない部分があったのであろう。完璧主義者という言葉を改めてかみしめることができる。
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